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Kei-Mad 断想録

変なものを変と言い、嫌いなものを嫌いと自由にはっきり言える世の中であることを願って始めました。

靖国は果たして慰霊ができてるの?

そもそも靖国神社で慰霊ができているのか疑問があるのだ?

靖国は本当に死者を神道形式に則って正しく弔っているのだろうか?

境内に慰霊に必要な神が勧請されず祭られてもいないのにはたして本当に「慰霊」ができているのか?と言う問題です。

祓い清めはどっちみち大祓の祝詞でやるんだろうが、祝詞を読むだけじゃ慰霊のポーズだけだよ。 200万柱以上のもの御霊を慰霊するには大祓の祝詞を読むだけで済むとは思えない。それに靖国の御霊は普通に亡くなった人のものではないんだから。

大祓の祝詞に登場する四柱の祓戸大神を勧請して祭り、 慰霊ということをその神を勧請して祭るという形で現さないと慰霊していることにならないから。

四柱の祓戸大神を勧請して祭ることはどうしても必要。それをしていないから、実際の所、靖国神社はどの神のどのような権能によって慰霊をおこなっているのだろうか?

という疑問がつきまとうんだ。

 

靖国の隠されたテーマが慰霊にはなく、死者の霊魂を原材料として 将門・道真を超える人造の荒御霊を造り、 それを護国の英霊として祭り上げ国を護る霊的な防御システムを構築すること、彼らをして霊的兵装とすることにあるならそれは話は別。

靖国はとても認められないことを死者の御霊を使ってやってることになるんだ。

歴史修正主義は日本人劣化プログラムである

歴史修正主義は日本人劣化プログラムである

その一、 相手の立場に身を置いて考えてみる思考回路そのものが欠徐する愚。

これに感染すると「特亞」「嫌韓・嫌中」などと言いだすようになり自分の気に入らない人間に片っ端から「在日認定」とか戦前の特高警察よろしく「非国民」「反日」のレッテルを貼り相手を理解しょうとすること自体を拒否するようになる。そして人間として大事な デリカシーの喪失の事態を招き。細やかで瑞々しい情緒や気配り、思いやりといったものが欠乏するようになる。

その二、 世界をあるがままに見ることができなくなる愚

日本人だけを特別の存在として考え、人間の行動はすべて条件因子の複合として起こるという社会科学の基礎を無視した解釈を歴史の解析に平気で適用するようになり。真実への正直さを失うようになる。

その三、 真実を多数決で決定しようとする愚

歴史の真偽をプレゼンの善し悪し、パフォーマンスの良否で世論を自身の好む方向へ誘導し多数決で決定しようとする傾向性を持つようになる。世界の真・善・美を多数決で決めようとすることの馬鹿馬鹿しさがわかっていない。謙虚さを失い傲慢以外の何者でもなくなってしまう。しかもそのことに気づかなくなる。

その四、 自分の価値観にあわない人間を権力的・強制的に従わせようとする愚

自分の価値観にあわない人やそうした行動をする人間たちを憎むべき敵、もしくは忌むべき嫌悪すべき者、としか見えなくなる。歴史的経緯をまったく考えずに自己の思いのままに法律を作ってでも強制的に従わせようとする。少数意見を認めずその中に含まれているかも知れない真実の可能性に目をつむる視野狭窄になる

以上のように デリカシーがなく正直さを失い、謙虚さをなくし、視野狭窄で傲慢な人間は 一言で言えば「人間としての徳性麻痺」起こしており、歴史修正主義とはそのようなことを惹起させる思考・思想なのだ。そしてそれに嵌まるとそのおぞましさが、おぞましいものとして見えてこないだから日本人劣化プログラムだと私は言う。

 

2ちゃんや歴史修正主義系のまとめサイトを覗くと

愛がない!同情がない!思いやりもない!

実に荒んだ差別感情むきだしの激情の嵐が吹き荒れている。

こういうのを見ると日本人の劣化としか言えんだろう!

人間が本来的に持つべき共感感情「同感・同苦・同悲」する性能を喪失している。

 

日本人と言えども、その他の外国の人種民族と人種としては同じホモサピエンス種としては何ら変わらない同質性をもち、違いはその歴史と社会環境による。日本人だから特別優れているわけではない。

仏教の基本原則は、 正しい教えに導かれて今を生きればそれは正しく、間違った思考・観念に導かれれば失敗の憂き目にあう。そして失敗をした時に正しい教えにたち返りその失敗をよく学びその失敗を糧にして今一歩を踏み出し再興を目指す勇気があればそれで良いとする。

支那と中国の呼称について

 支那と云う語には歴史的に差別の意味はない。というのが石原慎太郎氏や黄文雄氏の意見ですが、彼らは例えある時点で一般普通名詞に過ぎなくとも、『悪意と共に用いられる言葉には悪意が宿る』と云うことを知らない、むしろ見ようとしていないだけだと思っています。

日本に「支那」ではなくて「中国」の語を使うように要請したのは蒋介石中華民国だったはずです。 『「公的に支那の語を使用しないことは敗戦後、外務省次官通達によって決定された・・・この通達の背景には戦勝国として連合国の一部であった中華民国の意思があった。(ニコニコ大百科)」』 http://dic.nicovideo.jp/a/%E6%94%AF%E9%82%A3

現代の中国人が支那の語にある種の忌避を感じるのは、

支那=(因習と旧弊に満ちた時代後れの国)

支那=(大きいといえども列強に蹂躙されるしか出来なかった弱い国)

と云う侮蔑ないし悪意とそれが事実であった事に恥を感じてしまうことによると思われます。

少なくとも、蒋介石はそのように感じ、因習と旧弊を「支那」の語とともに捨て「中国」の名に過去の伝統と誇りを取り戻し未来への希望を託す国名として「中国」と云う国名を選んだのだと思うのです。

第二次大戦後中華民国はその国家意思として「公的に支那の語を使用しないこと」を日本国政府に要請し「外務省次官通達によってそれを決定」という過程を経て。私たちは「中国」の語を使うようになった。

私は、第二次大戦後の中華民国が「支那」の語に抱いたわだかまり嫌悪・忌避感を 支那=(因習と旧弊に満ちた時代後れの国)、 支那=(大きいといえども列強に蹂躙されるしか出来なかった弱い国) としてとらえることで了解出来ると思います。

極東の小国に過ぎないと思っていた日本に大国「支那」が蹂躙された、このことをある種の屈辱を感じずに済ませ得る「支那」人がいるだろうか?

英語のChinaの語源が「支那」であるのに日本にだけ「支那」を許さない 許したくないその理由も日本と中国が同じ漢字を流用している国である所にあります。西欧列強と共に支那を蹂躙した当事国である日本には「支那」を使って欲しくなかった

「いつまでも「支那」を「支那」だと思うなよ!」という気分は了解可能だと思いますが、同じ漢字を流用する国家である日本と日本人に特にそのことで二度と侮られたくない支那として侮られたくない」という気分を了解するので「支那」という言葉は使わない方が良いと考えます。

あえて「支那」という語を使う人は惻隠の情というものの判らん奴だと思っております。石原慎太郎はこれを判ってやっている確信犯の気がする。

どんな言葉であれ悪意と共に用いられる言葉には悪意が宿り、その語によって指し示される側はその微小の悪意にも敏感になるものなのです。

その真偽は調査がされたとも聞かないので現在の中国では不明というのが正確でしょうが、少なくとも、20年に及ぶ日本軍との戦争を通して蒋介石はそのように感じていたことは確実だと私は思っています。

中島みゆき考

 

あるtubeの動画に付けた「中島みゆき」についての私のコメがGoogl検索の1ページ目に表示されていてビックリした。

 

中島みゆき :『世情』に寄り添い『時代』を照射する歌を自ら作り歌い続けている『歌姫』、天界からのメッセージを現代に伝えてくれる巫女姫、女神『アマテラス』の現世での依代!?

 

以下は楽曲の私的解説の追加

世情:時代に異議を唱え抗うもの、変わりゆく時代を押し止めようとするものたちの抗争を巧みなリフレインを用いて神の如き視点で呪言的に遠視した独特の歌、中島みゆきにしか作れない神曲。全体の構成がシュプレヒコールをあげながら行進して行くデモ隊が遠くに見え、目前を過ぎ、遠くに去って行く視覚的感覚が音楽で表現されている点でラヴェルボレロと同じ作りになっている。

時代:あらゆるものを取り込み呑み込みながら押し流していく時代というものの無常、残酷さをかくまで上手く美しく歌った歌はないだろう。しかもその時代の中で、傷つき倒れた者たちをやさしく包んで癒し再び歩みだすようにそっと背を押す女神のような優しさのある歌でもある。中島みゆきを代表する傑作 

歌姫:『「歌姫」とは何か?』を歌そのものでメタ解釈した歌。人間が抱え込んだ重い固まり「夢も悲しみも欲望も」を歌によって洗い流す、そいうカタルシスを歌えるのが「歌姫」。こんな面倒な試みをしながら巧みなメタファーでとても詩的で美しく情緒たっぷりなのは、こうありたいという中島みゆき自身の自画像でもあるからだろうか?

反戦短歌を作ってみた

★ 帝国の設計図にて創られし

           帝国(クニ)はみな侵略を生業(ナリワヒ)とす

 

★ 欧州に規範(ノリ)を求めて造りし国は

           帝国の名に恥じぬ侵略行(ギョウ)ズ  

            

★ 帝国と名付けられたる我が国が

           侵略するはその発露と知れ

 

★ あの戦争(イクサ)身に沁(シ)み生きて残りたる

             人みな多くを語らずに逝(ユ)く

 

★ 戦争を知りたる者の数多(アマタ)逝(ユ)き

             聖戦語る輩(ヤカラ)増えゐる

 

 

★ 戦争の妄念傷を忘れ果て

           今その反省を自虐と呼ぶか

 

★ 敗戦を終戦なりと呼び来しは

         災害の如(ゴト)其(ソ)を見しならむ

 

★ 戦争を災害の如く見しならば

           そこに反省は生まれ来らず

 

★ 二十一歴史に残る馬鹿残し

           聖戦語る資格はありや

 

★ 百万の軍を中華に率い行き

          ドンパチするは聖戦なりしや 

 

ノモンハンジャワスマトラの戦役後

           軍の人事のおぞましきをみよ

 

★ ジャワスマトラインパール

           ここに旧日本軍の本質を見る

 

★ 友軍をかくも死地に赴(オモム)かす

           将は異邦で何をかせむや

 

★ 同胞(ハラカラ)の兵さえ死地に赴(オモム)かす

           異郷の民の虐殺むべなし

 

★ 戦前を今より良しと懐く者

            辻(ツジ)牟田口(ムタグチ)を忘れしか

 

★ 今人(イマビト)は辻(ツジ)牟田口(ムタグチ)を知らぬのか

            人より兵器崇(アガ)めし輩(ヤカラ) 

 

★ 一人(ヒトタリ)の辻(ツジ)牟田口(ムタグチ)がおりしかば

            隠されし同様の輩(ヤカラ)幾千あらむ

 

 

 ★  靖国は其処(ソコ)で会おうの地にやあれ

            浄(キヨ)むる神の一柱(ハシラ)とてなき 

 

★  どの神の御業(ミワザ)によりて英霊

            浄めむとするか靖国の社は

 

★ 戦場(イクサバ)で死せる御霊(ミタマ)は

            荒御霊 四魂乱れし禍津の御霊

 

★ 戦争(イクサ)にて死せるといえど神ならで

            禍津(マガツ)の御霊(ミタマ)になるだけなるを

 

★ 戦場(イクサバ)で死せる者(ハ)禍津(マガツ)と皆知れば

           疾(ト)く鎮(シズ)めして祖霊(ミオヤ)に返すを

 

天皇の為に戦争(イクサ)で死せる者

           神とて祭るを古(イニシヘ)に見ず

 

★ 古(イニシヘ)は戦争(イクサ)で死せる者を皆

            慰霊し祖霊(ミオヤ)に返せしものを

 

靖国に永久(トワ)に祭らる命より

            末と生るる今一度(ヒトタビ)の生

 

英霊の帰すべき処は靖国ならで

             子孫(コマゴ)が遊ぶ故郷の丘

 

★ 父祖眠り子孫(コマゴ)が遊びおる見えし

            小高き丘こそ至福処ならむ

 

英霊と呼ばれる魂の一々は

            神とは呼べぬ未熟の霊なり

 

★ 幾度も末と生るる生を得て

          徳を積むべき未熟の霊なり

 

★ 未熟なる御霊(ミタマ)英霊と持ち上げて

            神となる道閉ざす詐欺なり

 

★ キュウべぇも驚く詐欺の靖国

            ありとは知らね詣でし人は

(作歌 Kei-Mad/麻土恵)                

君が代・日の丸・天皇を好きになれない日本人は反日の欠陥日本人なのか?

君が代・日の丸・天皇を好きになれない日本人は反日の欠陥日本人なのか?

決してそんなことはありません。 日本人が本当に愛すべきものは、この「日本の天地自然」です。 それを我が故郷として愛せるひとは間違いなく日本を愛しています。

日本人が愛すべき対象は第一に日本の天地自然(美しいばかりでないその恐怖をも含めて)愛すること 、そして次にそこに今生きている日本の人々、そして最後に日本人が造ってきた文化と歴史ということになります。

 愛すべきものは特定の政府・政権・体制・イデオロギーでは間違ってもありません。 英語圏ではよく「State:時の政府としての国」と「Nation:国民国家としての国」の違いとして理解されていることでもあります。

右翼的な人たちは無理やりその一番目に「天皇」を入れたがりますが、 天皇は入るとしても三番目の文化・歴史の部分として入るだけです。

 文化・歴史には人それぞれに好き嫌いがありその好き嫌いの中に「君が代・日の丸・天皇」がたまたま入っただけです。そのことを持ってその人たちに「反日」「非国民」というラベル貼りをするのは、日本人として狭量ですし、間違っています。

その人たちがなぜそのように感じるようになったのかという歴史性への共感性を喪失しています。そこにヒステリー的憎悪を感じるので気持ち悪いです。

 まして法律を作ってそういう人たちに強制しようするのはもっと怖いです。

 

 日本の歴史の始めを縄文時代に置くと約一万六千年前で、 この時代に日本人の世界に対する感覚・感受性の大本、基礎となる宗教日本神道の原基ができたと想定されます。かむながらの道としての、天地共生と住み分け、恐れと感謝、祈りといった非常に感性的なものが造成されたのだと思っています。

 いうまでもないことですがこの時代に天皇はいません。 天皇の歴史など、縄文を起点とすれば二割もないのです。 天皇なしでも日本人は別に困らなかったことがわかります。 天皇は日本の歴史の重要な一部ではありますが、 天皇は日本が日本であるために絶対に必要な条件ではありません

 右翼的な人たちが誇りたがる日本神話だって天皇の歴史は下駄で嵩上(カサアゲ)しても二千六百年と少々です。 縄文起点で歴史を考えたときにはひつこいようですがやっぱり二割ありません。

 右翼系の歴史家は縄文時代と云う存在自体が自らの信条に異議を唱える異物であることに気づいていないのかと思ってしまう。日本の歴史が長いことを誇るために縄文時代を持ち出すのは「皇国史観」には致命傷になるのになぁ。

神道の原則から靖国批判を書いてみる、その一、

靖国神社は今までほとんど神道の原理・原則によって批判されてこなかった。 神道家の怠慢である。

靖国神社を心情的に支援する人たちには、神道原理の上に立った原理的批判以外 倫理的・道徳的・法律論的・社会論的・歴史学的な一切の批判が意味を持たないからです。

★[-「英霊の冒涜は許さん」靖国参拝訴訟で津川雅彦さんら15人、神社支援-]'14.09.19'

「わかってないなあー」としか言いようがないです。

では神道の原理原則からみて靖国にはどんな問題があるのか?

そして問題があるなら、どうすれば靖国は普通の神社なるのか?

普通の神社にするにはどうすればよいのか? といったことを述べたいと思う。

靖国神社が普通に戦死者を悼み追悼し慰霊するしているだけの神社であれば、普通の日本人が参拝しておかしい理由はなにもないのだが、「靖国」は神道の原理・原則から考えて非常におかしいものを抱えているつまり「国家神道」という神道亜種が抱えている問題があるからなのだ。

アニメ「魔法少女まどか☆マギカ」のキュウべぇふうに言えば

「あなた方は不幸にも戦争で死んじゃって、生前の約束に従って此処(靖国)に帰ってきました。でも恨まない・祟らないで静かにそこにいてね、英霊と云う位の「神」にしてあげるからこの国の守護神となってこの国を守ってくれないかなー、それ生前からの約束だから守ってね!(未来永劫契約だけどいいよね!ウフフ!!)」

これが靖国の呪い」というものなのだが、 此処には、思いっきりの詐欺があるのだがわかる人は少ない。 靖国神社は「お前らの命は一銭五厘」の延長線の上にあり -マインドコントロールされていることに気づけていない人が多いので、靖国英霊」と云う神に序され祭られることがとても良いことのように思われている。 そこで海外、特に中韓からの批判に何が悪い反対するのは非国民の売国奴だとなり・・・

<小泉・阿部よくやった。>

<国を守った「英霊」を讃え参拝することの何処が悪い。>

<中国・朝鮮なにするものぞ。ざまを見ろ!> の言辞が生まれる。

しかし靖国の霊魂の扱い方には神道の輪廻観からの逸脱があることに気づいていない。

 神道の原理・原則からいけばこの世(日本の土地)に生まれた魂は全て産土(ウブスナ)神の管轄になり、死せばこの神に導かれ祖霊に帰り、そしてまた自身に血のつながりのある血縁の末裔として生まれ変わると云う生死の循環を繰り返す-この生まれ変わりの中で自身の心魂を磨き神の御用を努めるにふさわしい存在となりその事績が万人に祝されることによって遂に神に序される、こういう過程でひとは神になる。個「人の御技の並外れ優れた徳のありてかしこきものをもって神(迦微)とする」本居宣長の定義からはこうなるのが自然である。

戦場などで異常な死に方をした御魂は四魂(幸御霊・奇御霊・和御霊・荒御霊)のバランスが崩れた禍津(マガツ)の御霊-荒御霊過多状態一言でいえば怨霊状態になっていて危険な状態となる、 この歪んだ禍津状態の御魂を慰霊して直な御魂に戻して後は産土神に委ねて祖霊に帰せば神道的には一件落着になるのだが靖国がかかわるとここがずれてくるのだ。

靖国は戦争で死んだ御霊を英霊軍神として祭ると云うことになっているのだが、祭られている御霊の一々は神と呼ばれ祭られるに足る資格が決定的に不足している。彼らは只戦争で死んだというだけで神と呼ばれるに足る何事かを成し遂げた訳ではない。神となるには未熟の御霊なのだ。

 まだ幾度も世に出直して身魂を磨き世に神と認めらる何事かをなして初めて神とはなる。 神となり双六で上りとなっていないものをかってに本来の転生の輪より外して囲い込んでいるだけなのだ。 人間はそう安直に神にはならない。戦で天皇のために死んだくらいで本当は神にはならない。靖国に祭られている御霊の一々は「神」となるには未だ未熟な魂でありとても神となるべき資格を有してはいない。本来何度も生まれ変わり死に変わりする生死の循環を繰り返し個としての自己を確立すべき魂を、横から引っさらってお前はもう神なんだといって「英霊」と云う名の群体霊の一員として、国家守護のガードマン役を押しつけているのである。

一個の魂・御霊として自己確立の機会を奪い独立した一柱の神になる機会を奪っているからだ これは詐欺である。

作歌してまとめてみる

「戦争(イクサ)にて死せるといえど神ならで 禍津(マガツ)の御霊(ミタマ)になるだけなるを」

英霊と呼ばれる魂の一々は 神とは呼べぬ未熟の霊なり」

「幾度も末と生るる生を得て 徳を積むべき未熟の霊なり」

繰り返しになりますが、神道では霊も本来生死を経て巡るもの、循環するものでその過程で霊も成長進化するものとしてあります。仏教のような業によって輪廻転成するのではなく一族の末・同系の遺伝子を縁としてその末裔として生まれ変わるのが神道の生まれ変わりの基本です。

靖国英霊」となることはこの循環から切り離されて永久に国家の道具として使役されることを意味するので、そこに詐欺があるというのです。自身の霊の成長と引き換えに護国の軍神として永久に使役され続けると云うのはとんでもない詐欺なんではなかろうか? 彼らが真に帰るべき場所は靖国ではなくて、父祖ねむり子孫が遊ぶ故郷であり、親類縁者の末に新たな生命を得て転生し、いま一度の人生をやり直し神の御用を努める事こそが神道の正しい循環なのだから・・・

作歌してみる

英霊の帰すべき処は靖国ならで 子孫が遊ぶ故郷の丘」

「父祖眠り子孫が遊びおる見えし 小高き丘こそ至福処ならむ」

靖国に永久に祭らる命より 末と生まるる今一度の生」

靖国はその循環を阻害している!

以上が批判の一つ目 今日はここまで、

歌はすべて自作短歌です。 By (Kei-Madこと麻土 恵です。)

その二、[http://kei-mad.hatenablog.com/entry/2015/07/01/075729]へ続く