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Kei-Mad 断想録

変なものを変と言い、嫌いなものを嫌いと自由にはっきり言える世の中であることを願って始めました。

(アーカイブ01) - 反省のしかた -

 ー  反省のしかた ー  

この論考は1996年の秋頃書いた約20年前のワープロ文書からの転載記事です。本質的なものの考えかたは 今も同じなのでそのまま文字化けしたのを修正した程度でやめました。今書き直すと全く別物になりそうなので、かなり熱く理想主義的です。靖国神社についてはほぼ直感だけで書いてしまっていますが、後に出口王仁三郎の批判を読んでそう的外れではなかったことに驚いています。                    

靖国大東亜戦争聖戦論・考        

保守主義者を中心に声高に現在進行中の憲法大東亜戦争についての東京裁判の見直しについての論議について一部に一理あるとは思うもののそのあまりのとんでもなさに少々頭にくるものがあって、誰も正面からまっとうな批判を展開しないので書かせてもらうことにします。  

 こいつらは、歴史とはなんであって、何をどのように反省することが、歴史から学ぶことになるのかということがまったくわかっとらんのではないのか?-まず過去の歴史的事実そのものに対しては、我々現在の人間は自ら歯噛み、歯ぎしりするしかないのです!-なぜそんなことをしてしまったのか?他に選択の余地はなかったのか?と問うことはできる-が、しかしそうするのは本当は我々のこれからの未来に対してなのです。すでに起こってしまった過去史とは必然の連鎖として受け取るより他はない。必然として受け止められた歴史の要因の中に我々の未来を構築する手掛かりを見出すことだけが歴史を真の意味で反省し、学ぶことに通じるのです。  

 

 極端に言ってしまえば既に起こってしまった歴史そのものの中に善悪はない!善悪という倫理的判断は我々がこれからなそうとする現在と未来の中にだけあるのです。善悪は既に起こってしまった過去史をどのように引き受けて未来を構築するかという我々の営みの中にだけあるのです。 

 そこで言わせてもらう、歴史を真に裁くのは、遙かな未来の見も知らぬ歴史家なんかじゃない。これはもうはっきりしている。

 過去の歴史に裁定を下すのは、今-此処(ココ)-只今(タダイマ)に、生きて生活している我々自身以外の誰でもありえないということです。これは権利であると同時に義務ですらある。それは何故か? 歴史を裁くとは、過去史を「あれは良い!」「あれは悪い!」と価値的に評価することであるからであり、この我々の現在時点での過去史への価値の〔パースペクティブ〕-〔視座〕-〔まなざし〕を明らかにしてゆく作業であるからです。  

だから過去に対する批判を決定するものは、現在時においての我々の未来に対するこの〔まなざし〕にほかならないからなのです。「我々がどのような未来を良きものとして望み、造りあげようとしているか?」-という現在の我々の思いが過去史を裁くのです。

 

 つまり過去に対する現在の評価は同時に現在から未来にかけての我々の行動選択の基準でもあるということなのです。これは本来-歴史のイロハとして認識されるべきことであるにもかかわらず、このことに日本人がまったく気付いてないから、中国・朝鮮の人たちは怒るのです。「日本人はまったく反省していない!」と、なぜか?-過去の戦争の肯定は、そのまま未来における同様の戦争の可能性の肯定となる-つまり条件さえととのえば、また同じことをやるかも知れないと言うことの暗黙の表明となってしまっているからです。これでは、中国・朝鮮の人たちが怒り出さない方がおかしいだろう。「同じことをまたヤラレタラとてもたまらん!」ということなのです。つまり過去史を肯定するということは、同時に未来に対しても過去に行った同等-同質の我々の自身の行動を肯定することだからなのです。だから彼らは「日本人はまったく反省していない!」と言うのです。

 

 歴史を裁くとは、そのような意味を持つのです。だから自民党保守派の長老たちや、民族派と呼ばれる右翼の論者たちの大東亜戦争-肯定論というのは論がとんでもなく逆立ちしているのです。つまり本来的に、証明されるべき命題「大東亜戦争は、日本によるヨーロッパ列強による諸アジア植民地支配に抵抗する民族解放闘争を支援するための正義の戦争であり聖戦であった」を、意識的に、この戦争を実際に戦った日本人の主観的な思いの次元にすり替える事によって、証明済の前提として、このことによって既に犯してしまった恥ずべき過去の日本人の罪業を救済する手段として使うという手品みたいなごまかしをやってしまうのです。 

 

 つまり、証明すべき命題の証明方法がまるでムチャクチャなのです。確かに彼ら自身の主観的な意識の上においてはそうであるかもしらん、また事実そうなのであろう。確かにあの戦争を実際に戦い、死したる人々の意識において「大東亜戦争」は聖戦としてあったであろう。なぜならば、靖国に「英霊」として奉られることとなった戦死者たちはそのような教育しか受けていないからです。

しかしながら、いくら自分自身が聖戦として信じて戦ったことが真実だとしても、その真実というものは高々「主観的真実」にすぎないし、到底あの戦争が-「神国日本によるアジア諸民族の解放闘争支援のための正義の戦争であり聖戦であった。」ということの証明にはならない。

それは証明ではない、それは事実に基づいた証明ではなく、たんなる主観的で一方的な思い込みによる説明に過ぎない。いくら自分自身が聖戦-正義の戦いと信じて戦ったことが真実-「主観的真実」だとしても、そのことの歴史的な真実性は事実そのものによって確証されねばならない筈のものだからです。其処のところに大東亜戦争-肯定論の根本的な論のすり替えがあると思うのです。               

 

命題形式にしてみましょう                 

証明されるべき命題  

大東亜戦争は、日本によるヨーロッパ列強による諸アジア植民地支配に抵抗する民族解放闘争を支援するための正義の戦争であり聖戦であった。だからもっとより肯定的に評価されてしかるべき戦争である。」    

                証明-Ⅰ

 「あの戦争のさなかにおいて大多数の日本人は自らの戦いを正義の戦争であり聖戦であると信じて全国民が一丸となって戦ったという純粋心情の真実はあの戦争が聖戦であり正義の戦争であったことの唯一絶対の証明である。」   

                証明-Ⅱ  

「また間接的ではあるが、日本の敗戦後多くのアジア諸国がヨーロッパ列強の植民地支配を脱して独立国となったこともあの戦争の正当性を明かしている。」 

                証明-Ⅲ

「最後に、もしあの戦争が聖戦でなくて単なる侵略戦争に過ぎないものであるとしたら、あの戦争を聖戦であり正義の戦争であると信じて戦い死んで行った靖国の「英霊」たちに何と申開きをするのか? 私にはとても彼らを侵略戦争の犯罪者として死者を鞭打つ様なことは絶対に出来ない。だから彼らのためにもあの戦争は絶対に聖戦であり正義の戦争で有り続けなければならない。このことは「英霊」にたいする礼儀であると同時に、未来の日本の子孫たちが国際社会において自国の歴史に誇りをもち肩身の狭い思いをしないためにもそうなのである。」  

 

大体において以上のようなロジックの線上に大東亜戦争-肯定論は成立しているように思われます。逆に言えば以上のようなロジックの上においてのみしか大東亜戦争-肯定論は成立しえないということです。そしてこのロジックを壊せば大東亜戦争-肯定論は崩れる。しかし問題の急所は単にこのロジックが論理的に成立しないことを証明するだけではすまないところにあるのです。それはこの問題があの戦争に係わったすべての日本人の心情の深層そのものにあるからです。大東亜戦争-肯定論とは単純で純粋な論理的の論証体系ではなく、それは心情の論理において強固に結び付けられた深層のコンプレックスの体系そのものであるからなのです。

 

 本質的な意味でこの論のロジックを解体するためには、どうしても日本人の深層心理にまで踏み込んで心情論理の次元でそのコンプレックスを解体してゆく手続きが必要なのです。それは大東亜戦争-肯定論と言うのは単なる論理としてあるだけのものではないその背後ににはその論を是としなければならないような実体験からくる心情の事実があるからなのです。つまり日本人の霊魂観・感覚性・心情性といったその民俗性を無視した大東亜戦争論はそれを是とするにせよ非とするにせよ彼らの心にとどかないと思うのです。  

  そこで、靖国を考えなければならないしかも-民俗の深層としての靖国を! -では、靖国とは何であろうか? もう少し問題をハッキリ定義してみよう-つまり、日本人の霊魂感において靖国英霊とはいったいどのようなものとして理解されることになっているのか? 

 靖国に於いて護国の英霊と呼ばれているもの、それはある人たちが言うように、国のために死んでいった人々、国のために喜んで生命を捧げた人々の霊ではないと思います。

 靖国英霊とは『国のために喜んで死んで行った人々の霊』であるよりは、むしろこの世に多くの悔いと心残りを置いて自ら望まぬ死をとげた人々の霊-日本という故郷フルサトの街や村や海・山・川、そこに住み働いている-親・兄弟・妻・恋人・遣り残した事業-等の諸々の者たちに尽きせぬ思いを残したままに自ら望まぬ死をとげる事となった霊であり、過激に言えば―国家によって無理やり死に追いやられた人々の霊であると私は考えるのです。

 ならば靖国に於いて護国の英霊と呼ばれているものの正体は、それは英霊と尊称されるべき高次の霊格を持った国家守護の神霊ではなくて、靖国の社の中にあって、この世とあの世の中間をさまよい続けている― 未だ和せざる亡霊、荒ぶり狂える魂、不成仏霊、なのではないだろうか?― 彼らの戦いと死は、自ら求めた戦いではない。また自ら望んだ死でもない。国家による強制と徹底的な情報管制下にあってほとんど選択の余地のない選択をせざるを得なかった、その結果としての戦いであり、死であったと。  

 だから彼ら―靖国英霊とは、この世に多くの心残りと悔いを残しての非業の死を遂げた人々の霊であり、同時に国家によって無理やり死に追いやられた人々の『怨霊』に他ならない。即ち英霊とはそのまま『怨霊』そのものであるのです。           

 だから-靖国の「英霊」とは何か? その答えはこうなります、即ち-靖国英霊とは、この世に深い思いを残して非業の死を遂げた数多アマタ-の人々の怨霊なのである」と。「英霊」とはおどろおどろしき「怨霊」というあられもない存在の上に掛けられた生き残りたるものたちの心情のベールに他ならないのです。靖国とは、本当は-これら数多アマタ-の怨霊たちの卒塔婆であり、日本人の愚行の記念碑として正しく祭られるべき場所なのです。その辺に多大の誤解が、或いは詐欺・ごまかし・すり替えと言った方が正確かもしれないが、そうしたものがそこに厳然としてある。

 だから靖国は、本当はそのような存在である「英霊」を真に-鎮め・清め・祭ることになる正しい祈りが成立すべき条件と価値を持った施設でなければならない。この意味でいえば、靖国は日本人全体に対して最も聖なる場所-たるべき所なのです。本当は、広島・長崎の原爆記念碑よりも、日本人そのものの民俗の深層にかかわる場所であるべきなのに!という思いが私にはあります。  

 広島の原爆記念碑に刻まれているあの「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから。」という碑文は靖国にこそ最もふさわしいと私は思うのです。そしてここの所にこそ-あの戦争が聖戦でなくて単なる侵略戦争に過ぎないものであるとしたら、あの戦争を聖戦であり正義の戦争であると信じて戦い死んで行った靖国の「英霊」たちに何と申開きをするのか? 私にはとても彼らを侵略戦争の犯罪者として死者を鞭打つ様なことは絶対に出来ない。だから彼らのためにもあの戦争は絶対に聖戦であり正義の戦争で有り続けなければならない。-という死んでいった彼らと共に同じ戦いを戦って生き残った者たちの思いが交錯するここの所に大東亜戦争聖戦論の根っこがあり、これらの死者に対する弔トムラ-いの思いを全く欠いた左翼的進歩主義者たちが一方的に投げ掛ける戦争批判に対する反発として現象してくるのだと私は考えます。 

 私は彼らの魂は絶対的に日本国民全体によって弔われなければならないと考えますが、私が靖国に反対なのは現行のままでの靖国はおよそ本当に「英霊」を真に-鎮め・清め・祭ることになる正しい祈りが成立すべき条件と価値を持った施設であるとはとても言えないからなのです。そこにあるのはこの「英霊」に対する詐欺・ごまかし・すり替えでしかないからです。

 現行の靖国神社とは、何のため、誰のための、神社であるかといえば、即ち靖国とは、これらの非業の死を遂げた人々の霊〔怨霊/荒魂/不成仏霊〕の怨恨と祟りを恐れる者たちのための、祟りよけの神社であって決してこれらの人々の霊の慰安を第一義とする神社でない。ことがひとつ。

 

 

 靖国国家主義者たちによって祭りあげられた本来の日本神道とは、似て非なる国家神道という邪神妖怪の使役したひとつの社会的装置であり、非正義の戦いを、聖戦としての戦いだとして国民を欺きぺてんにかけるのに都合のよい手段であり道具であったという歴史的事実を忘れたくない。ことが二つ目。 

 

 

 それ故に私は現行の靖国神社は、『狂える国家指導者に導かれて非正義の戦いを正義の戦いと信じて戦い死したる兵士たちの魂の獄舍/魂の留置場』として、また『この世に多くの心残りと悔いを残したまま非業の死を遂げた、迷える未だ和せざる荒ぶれる兵士たちの魂の数多やどれる怨恨の社』として今もあると靖国神社を見ざるを得ない。ことが三つ目。 

 

 だから私は現行の靖国ほどこれらの英霊とよばれる兵士たちの魂を慰霊するにふさわしからざる場所はないと考える。何故か?それは、靖国においてなされる鎮魂・慰霊は真の慰霊というよりは、悪霊・怨霊の封殺の儀礼とならざるを得ないからです。『靖国が〔迷い和せず荒ぶれる魂〕の怨恨の社』であれば、国民を義なき戦いに駆り出した天皇をも含む支配者たちにとって、護国の英霊とはそのまま悪霊であり、怨霊たらざるを得ないからである。それが故に靖国における鎮魂とは『国のために死んで行った数多の魂を悪霊として永久に靖国の社の中に封殺し続ける儀礼』に他ならない。靖国における鎮魂とは護国の英霊を神として祭ることではなく、非業の死を遂げた荒魂の祟りを封殺し社の中に呪縛しつづける儀礼たらざるを得なくなっていること。四つ目。

 また靖国の視線は日本人だけにしか向いておらず、前の大戦全体において犠牲となって死したる他国のとりわけアジアの人々及び今後の世界に対してのメッセージ性をまったく欠いていることです。これが五つ目。

 だから私が靖国に反対なのは現行のままでの靖国はおよそ本当に「英霊」を真に-鎮め・清め・祭ることになる真に正しい祈りが成立すべき条件と価値を持った施設であるとはとても言えないからです。そこにあるのはこれらの「英霊」に対する詐欺・ごまかし・すり替えでしかないことによるのです。

 

 もう少しだけ補足させて下さい、私が国家神道を邪神・妖怪の類タグイ-であり本来の日本神道にはあらざる似て非なるものだというのは、神道のルーツを縄文文化にまでたどれば、『自他共生』『天地共生』の思想に至るはずであり、この思想はどう考えても“自国だけが良ければ他国なんかどうなってもかまわない”という国家によるエゴイズムの発動である国家主義と相入れるはずがないからです。こうしたエゴイズムに奉仕する宗教は日本の天地自然の背後にある本当の神の意に反した邪神・妖怪の宗教と呼ぶ他ないからです。こうした宗教に惑わされて「お国のために戦って死ぬ」ことを良しと考える人は“自国だけが良ければ他国なんかどうなってもかまわないというエゴイズムに奉仕しているだけなのだ!”ということが判らなくなってしまっているのです。

 -だから靖国は変わらなければならない! 真に靖国の「英霊」を鎮め・清め・祭ることになる正しい祈りの成立すべき条件と価値をもった施設として生まれ変わらねばならない! 日本人全体に対して聖なる場所として-キリスト者キリスト者として祈れ、佛教者はそれぞれの佛教者の流儀によって祈れ、神官は神官の流儀によって、さらに共産主義者や無神論者たちにさえ-非業の死をとげた彼らに対して過去の日本の過ちを未来に向かって二度と繰り返さないことを誓い示す場所として、日本人の総てにとって聖なる場所として靖国は再生されなければならないし、そのような方向において靖国は変わらなければならない!そのように私は考えます。それは-彼らの犠牲の上に今の日本があると思うからです。

 

 ついでに言えば 広島・長崎への原爆投下という事件は、アメリカという国にとっては太平洋戦争という日本とアメリカとの戦争全体の中で、その戦争の最終局面を飾る一作戦であり、ひとつのエピソードに過ぎないとしても、この事件はこれから先の未来において決して行われてはならない人類全体に対する愚行の啓示として受け取るべき世界史的事件なのであり日本人だけが独占すべき体験ではないのです。

 広島・長崎の体験はアメリカが思うようにひとつの戦争の一エピソードとしてあるのではなくて、それがそれ以後の未来と世界全体・人類全体に開かれてあるべき世界史的事件として共有すべき体験であり事件であるということなのです。それはその時使用された核兵器が一瞬にしてもたらした未曾有の被害と恐怖の史上初の歴史的証言としてあるからです。

 広島・長崎のこの『核』の体験によって、「人類の」歴史は『核』以前と『核』以後とに敢然と引き分けられる-それほどに『核』の持つ意味は大きい。広島・長崎での『核』の体験は日本が行った-アメリカがいうところの“真珠湾騙し撃ち攻撃”の自業自得の対価として当然甘受すべき出来事であるという以上の世界史的意味性をこの体験は有しているからです。 広島・長崎での体験は『核』の使用そのものが“人道に対する罪”そのものであることを世界に啓示したといえるのです。残念ながらアメリカにはそのような認識はまだない。なお残念なことに現在の日本政府にも少しもあるように見えない。