Kei-Mad 断想録

変なものを変と言い、嫌いなものを嫌いと自由にはっきり言える世の中であることを願って始めました。

君が代・日の丸・天皇を好きになれない日本人は反日の欠陥日本人なのか?

君が代・日の丸・天皇を好きになれない日本人は反日の欠陥日本人なのか?

決してそんなことはありません。 日本人が本当に愛すべきものは、この「日本の天地自然」です。 それを我が故郷として愛せるひとは間違いなく日本を愛しています。

日本人が愛すべき対象は第一に日本の天地自然(美しいばかりでないその恐怖をも含めて)愛すること 、そして次にそこに今生きている日本の人々、そして最後に日本人が造ってきた文化と歴史ということになります。

 愛すべきものは特定の政府・政権・体制・イデオロギーでは間違ってもありません。 英語圏ではよく「State:時の政府としての国」と「Nation:国民国家としての国」の違いとして理解されていることでもあります。

右翼的な人たちは無理やりその一番目に「天皇」を入れたがりますが、 天皇は入るとしても三番目の文化・歴史の部分として入るだけです。

 文化・歴史には人それぞれに好き嫌いがありその好き嫌いの中に「君が代・日の丸・天皇」がたまたま入っただけです。そのことを持ってその人たちに「反日」「非国民」というラベル貼りをするのは、日本人として狭量ですし、間違っています。

その人たちがなぜそのように感じるようになったのかという歴史性への共感性を喪失しています。そこにヒステリー的憎悪を感じるので気持ち悪いです。

 まして法律を作ってそういう人たちに強制しようするのはもっと怖いです。

 

 日本の歴史の始めを縄文時代に置くと約一万六千年前で、 この時代に日本人の世界に対する感覚・感受性の大本、基礎となる宗教日本神道の原基ができたと想定されます。かむながらの道としての、天地共生と住み分け、恐れと感謝、祈りといった非常に感性的なものが造成されたのだと思っています。

 いうまでもないことですがこの時代に天皇はいません。 天皇の歴史など、縄文を起点とすれば二割もないのです。 天皇なしでも日本人は別に困らなかったことがわかります。 天皇は日本の歴史の重要な一部ではありますが、 天皇は日本が日本であるために絶対に必要な条件ではありません

 右翼的な人たちが誇りたがる日本神話だって天皇の歴史は下駄で嵩上(カサアゲ)しても二千六百年と少々です。 縄文起点で歴史を考えたときにはひつこいようですがやっぱり二割ありません。

 右翼系の歴史家は縄文時代と云う存在自体が自らの信条に異議を唱える異物であることに気づいていないのかと思ってしまう。日本の歴史が長いことを誇るために縄文時代を持ち出すのは「皇国史観」には致命傷になるのになぁ。