Kei-Mad 断想録

変なものを変と言い、嫌いなものを嫌いと自由にはっきり言える世の中であることを願って始めました。

国家神道を解くためのいくつかの定義

靖国国家神道をいろいろ書いてきたのそれを読み解くために必要な幾つかに自己流の定義をしておこう。

 宗教∥①.追い詰められてなんらかの救いを必要としている弱い立場の人や、人のよい騙ダマされやすい人間たちから金や財産・労力を騙し取る手段=人民の阿片もしくは『サギ』『ペテン』

 ②.自己の生と世界の真相についての本質的根源智-高次認識,世界の深層についての科学的な知識とは別な意味での客観智でありながらそれを信じない人間にとっては-ドクサ(主観的独断)でしかないもの.それを信じる者にとっては,自己と世界全体を規定する“根拠の思想”“覚悟の思想”“最後の思想”としてあるもの.

 ③.人の人生の意味を意義づけ規定する象徴的意味体系-世界観 /人の人生- 生まれ・生き・老いて・死ぬ -という日々の暮らしを努力して生きて死ぬというそのことの意味を,永遠と云う宇宙的な時間- 日常的な個々人の生死を越えた時間と空間の中でどのように意義づけ評価していくかを決定づける基準

 

神道とは

神道を「唯神(かむながら)の道」と押さえ、日本の天地自然の背後に在る自然精霊としての神と瞑想を介して直截する回路を持てば神社も天皇も不要になる。自然の神々との間に直截的な交歓をかわしながら永遠の今としての現実の中で自然共生的生を生きること。

本来日本の神道とはそういう神と直截して天啓を得るシャーマニズムの宗教だったはず。清めと祓いはその為の条件、その条件だけが神道であるように誤解されてしまい、目的が不明になり手段が自己目的になってしまった。それが日本の神道の大問題。

もちろん自分用の定義です。もっとも定義というよりイメージ、国家神道と云う言葉が私に引き起こす諸々のイメージのまとめみたいなものだな。

国家神道とは簡単言ってしまうと、

伝統的神道儀礼の上に天皇のシャッポを乗せる思想である。それまで、地縁・血縁を背景としていた民俗的習俗儀礼としての神事をすべて国家の管理下に置き、すべての神社に天皇の刻印を押し神社は宗教ではなく「国家の宗祀」とするイデオロギーの類であり、皇国史観神道世界を統べようとする思想。

天津神国津神であろうと総ての神々を万世一系の天皇支配に帰属させようとするする思想。総ての国民に古事記日本書紀天皇中心主義の思想を政治権力を用いて日本の隅々まで教育制度を通じ貫徹させようとした思想でありイデオロギーであるもの。その性格は、天地自然に宿る自然精霊としての神々と天皇が同格に来る転倒した価値観を持つ「現人神」の宗教、政治を「現人神」天皇の権威・力で最終決着をつけようとする祭政一致形の宗教

 

だから今も、自身の精神世界で神との接続・連携ができていない神道家がこの思想から自由であることは難しい。自身の霊的神秘体験として直截的な「神」との交歓を経験していない神道家は国家神道の呪縛から自由であることは今も難しい。

自身及び日本人の霊性への反省よりも、「神国日本」や「美しき日本」を前面に持ち出す神道家は信用しない方がいい。国家神道の呪縛は今も続いている。